〜女人守護のお寺〜

四国霊場番外札所 安産厄除祈願所

鍬持大師総本坊 般若菩薩根本霊場


真言宗御室派
如竟山 大慧金剛密寺
吉 祥 院


歴代院家
御守・土産 納 経


当 院 縁 起


↑院号碑:仁和寺門跡
裕信大僧正の書

イメージ
阿波上人青蓮(右)と
興教大師覚鑁(左)
出会いの図


↑御尊牌
中央:聖恵法親王
左:裕信大和尚 右:阿波上人



↑聖恵法親王


↑重源上人像
(東大寺蔵)


↑土御門上皇(吉祥院蔵)










熊野半権現を祀る

當院は寺伝によると、平安時代前期の延暦19年庚辰(800年)四国でご修行中の弘法大師が当地に来錫し開基されたと伝わる。

当時この地は山々に囲まれた大きな湖で村人は山の急斜面に痩せた田畑を作り細々と暮らしていた。この状況をご覧になられた大師は大変哀れに思われ、湖の水を抜き開拓すればよい農地になると確信され、村民を集めて吉良山の一部(今の滝津の辺り)を自らも鍬を振り、牛に鋤を引かせて村民と共に切り崩し豊かな地とされた。

その折、吉良山にご自身の住まいとして草庵を結ばれ、村人の無事安穏を祈って般若心経を書写し、苦を抜き楽を与える般若菩薩を本尊として庵に安置されたのが当院の始まりで、吉良山の庵といわれた。

庵は、大師が旅立たれた後、時代の変遷とともに自然に廃絶し、大師御筆の心経と本尊も紛失したと伝わる。

時代は下り平安後期の天永2年辛卯(1111年)興教大師の恩師である阿波上人青蓮大和尚(当国出身で高野山の念仏聖として活躍し、熊野権現に祈願して霊験を得たため人々に半権現として崇められた)が弘法大師を慕って廃絶していた庵の再建を発願された。

これに際し上人と親交の深かった白河天皇の第五皇子聖恵法親王が自ら本願となり、庵に再び本尊とするため般若菩薩の尊像を御寄進。正式名称が無かったため、般若菩薩の密号から大慧金剛密寺の号と、般若菩薩と縁の深い文殊菩薩の密号から吉祥尊院の院家号を下賜される。しかし、「尊」の字が恐れ多いということで通称を吉祥院とした。院家号を重要視して寺号より院号を名乗る。

上人は大師に習い心経を書写し安置、日頃より信仰する熊野権現の本地仏阿弥陀如来を謹刻し、本尊の傍らに祀り念仏三昧の修行をされたが、後に高野山に帰山された。

當院は聖達の念仏道場となり、保延3年丁未(1187年)には、後に奈良の東大寺を再建された重源上人が念仏修行をされるなど聖の拠点のひとつとなった。

鎌倉時代、承久の乱により土佐に流された土御門上皇が、貞応2年癸未(1223年)阿波に御遷幸された。重源上人を崇敬されていた上皇は、上人が修行された寺があるのを聞かれて上人の菩提、ご自身と後鳥羽、順徳両帝の後生得楽を祈り、阿弥陀如来根本陀羅尼を御自ら書写され、近臣であった源雅具を院使として遣し、當院に納められ勅願所(御願所)と定められる。

寛喜3年辛卯(1203年)に、上皇が崩御され、その菩提を祈る為、遺臣達により上皇の念持仏であった地蔵菩薩立像が納められた。

正安3年辛丑(1300年)寺院名の上に山号をつける風習が広がり當院のあった山を吉良山と言っていたが、真理を極めるとの意味から如竟の文字を足して如竟吉良山と号し山号とした。

戦乱期の天正5年丁丑(1577年)阿波上人の開山以来、上人の華美な伽藍は要らないとの遺志をまもり、小さな山寺として法灯を伝えたが、土佐の長宗我部元親による阿波侵略の戦火に遭って炎上し再び廃寺、本尊や什物は散逸する。

この伝説の寺を現住職が、平成14年壬馬(2002年)に新たに般若菩薩を造立し、大師が般若心経を納めた故事に因み、高野山第389世座主密雄大僧正が、昭和天皇御即位の時に玉体安穏を祈り書写された絹本の般若心経を厨子の台座に納めた。また、大師開拓の姿を写した鍬持大師像と、阿波上人の故事から阿弥陀如来を祀り般若、阿弥陀、大師の三尊を本尊とし、勧請中興開山に真言宗長者・仁和寺門跡
裕信大僧正をお迎えして院家格の寺院として再建した。

平成29年丁酉(2017年)には、失われた土御門上皇念持仏の御身代として古仏の地蔵菩薩像を勧請し安置する。

宗派は真言宗御室派で京都仁和寺の直末寺院である。

尚、当院の山号は「如竟吉良山」普段は長い為、山号を省略し「如竟山」とし、略称を「如竟山 大慧金剛密寺 吉祥院」、正式名称は「如竟吉良山 大慧金剛密寺 吉祥尊院」と号す。

因みに、江戸時代の古地図に吉良山を北山と表記しているが、これは山が上角村の北にあった事とから北山とも呼ばれるようになった。




熊野半権現縁起

伝えによると、阿波上人青蓮大和尚(吉祥院開山)が人々を苦しみから救いたいという願いを立て、熊野で大変厳しい修行をされていた。

修行を始められてから丁度十二年目の満月が輝く夜に熊野本宮大社で参籠していると本殿である證証殿の中から扉を押し開いて白髪の老人が上人の前に現れる。

老人は上人にむかい、我は熊野権現なり。汝、衆生済度の心と我を念ずる心は他に及ぶ者無し。過去の罪障を滅し、現世の利益を授け、未来の極楽往生を約束する我が力を授けん。我が分身として上下の分け隔てなく皆を救え。と告げられるとたちまちに本地(神の本来の姿)である阿弥陀如来の姿に変わられ上人に一筋の光を放たれた。この霊験を得た上人はさらに修行にはげまれ苦しむ人々を救い尊ばれる。

ある時、熊野詣でに来られた白河法皇が道中で病に伏せられた。法皇が苦しみに臥せられていると、夢の中に白髪の老人が現れ、この病は汝がおかせし過去の罪障によるものなり。熊野に青蓮と云う沙門あり、必ず汝の病を癒すであろう。と言い消え去った。法皇は目覚めると、これは熊野権現の御告げと感じ、すぐに上人を探させて本宮にて祈祷を命ぜられる。上人が罪障消滅の祈り始めると法皇の病はみるみる良くなっていった。すっかり病が癒えられた法皇は無事に本宮に参拝され御神前を見ると祈願している上人が阿弥陀の印をくみ光明を放ち座している。これを見た法皇をはじめ、その場にいた者は皆驚き感激のあまり上人を礼拝された。その後、上人より一部始終を聞かれた法皇は恩賞として僧位や寺を上人に与えようとしたが、上人があくまでも一沙門として各地を廻り熊野の大神の力で人々を救いたい、地位や寺は不要とこれらを全て固辞される。益々感心された法皇は、人でありながら熊野権現の神力を賜り分身となった事から上人に半権現という神号を贈られ皇室から庶民まで篤く上人を崇拝した。

当院ではこの御由緒から上人を熊野権現と御同体として熊野半権現として祀りしている。 

御神号
南無熊野半権現


阿波上人と太宰治著お伽草子


太宰治のお伽草子の中の「瘤取り」に、剣山の麓に住んでいた瘤取り爺さんの息子として阿波聖人という人物が出てきます。当院開山の阿波上人をモデルにしたといわれていますが、太宰が作りだした創造のお話です。ただ、生真面目な人柄は念仏一本だった上人と重なって見えます。